anone.one週刊連載小説 是非に及ばず—信長の宣戦布告(第2回) 水城丁房

ZEHINIOYOBAZU-NOBUNAGANOSENNSENNFUKOKU

MIZUKI TEIBO

第1回(プロローグ) 覚王山と信長の父、弾正忠信秀

第2回 稲葉山城と美濃の蝮 斎藤道三

天文十六年(1547年)九月。美濃・加納口。

濃尾平野の北端、空を切り裂くように聳え立つ険峻な岩山の麓に広がる湿地帯に、数千に及ぶ織田勢の遺骸が折り重なっていた。

その岩山を、当時は稲葉山と呼んだ。

今日、岐阜市の中心部に屹立し、山頂に復元天守を戴く標高三百二十九メートルの「金華山」である。名古屋駅からJR東海道線の新快速に乗ればわずか二十分、岐阜駅に降り立つと、北の市街地の頭上に突如として巨大な緑の衝立のように立ちはだかるあの山だ。平野のどこからでも仰ぎ見られるこの金華山の頂に築かれた稲葉山城(のちの岐阜城)は、濃尾平野全体を冷酷に見下ろす巨大な物見櫓であり、美濃の絶対的支配の象徴であった。

この天険を根城としていたのが、美濃の蝮と恐れられた斎藤山城守道三である。

「尾張の虎」と恐れられた織田弾正忠信秀は、この日、その道三が仕掛けた変幻自在の伏兵と徹底した殲滅戦術の前に、生涯最大の壊滅的敗北を喫したのであった。

泥と血液にまみれ、満身創痍で居館へ転がり込んだ信秀は、勢いよく濡れ縁にどっかりと腰を落とした。側近たちが青ざめて息を殺すなか、庭先から軽快な足音とともに、ひとりの少年がひょっこりと顔を出した。

十三歳の吉法師――のちの信長である。

派手な紅の帯を斜めに結び、腰には干柿と火打ち袋をぶら下げた奇妙ないでたちのまま、泥だらけの父親をしげしげと憮然に眺めまわした。信秀は持て余しつつも。

「なんだ、お前のその恰好は、じいからも苦情が来ている。」

「それがじいの仕事だ。俺が素直にしてやれば、職を失いかわいそうではないか、父上。」

信秀がギロリと睨みつけたが、吉法師は平気な顔で縁側に飛び乗り、懐から取り出した干柿をかじりながら、縁側の血痕を見ている。

「美濃の蝮は父上より強いらしいな。」

「うむ、確かに強い。が、勝てぬことはない。」

「父上は人が良いから勝てぬ。」

「人が良いだと? わしが美濃の蝮に力負けしたとでも言うのか」

「そうは言うておらん。格好をつけすぎる。」

吉法師は干柿を放り投げ、空中で器用にうけとると。

「父上も食うか?うまいぞ。」

「戦に負けた上に、汚いものを食って腹をこわしたくはない。」

「あのな、父上、道三とかいう男は、油を売る誠実さで人を殺しておる。損か得か、勝つか負けるかしか頭にない。なのに父上は、わざわざ大軍を美しく揃え、武士の看板を背負って泥沼へ突っ込んでいった。油売りの誠実な企みに、見栄を張りに行っただけではないか。そんなものは負けて当たり前だ。」

「……油売りの勘定、か。」

「あ奴は泥の中で生きる蝮だ。泥水の中で組み合おうとするから噛みつかれる。俺なら、何が棲んでいるかわからぬ沼など相手にせぬ。熱田や津島の銭で人を雇い、道具を買い、遠くから沼ごと干上がらせてしまえば、蝮など干からびて蛇の干物になる。」

あまりに無邪気で、かつ身も蓋もない十三歳の言下に、信秀は呆気にとられた。

だが次の瞬間、信秀の腹の底から湧き上がるような笑いが込み上げてきた。「わっはっは」と豪快に笑い崩れ、泥のついた手で吉法師の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫で回した。

「泥水の中で組み合うな、か! 違いない。わしは大旦那の気取りが抜けなんだわ。」

「やめれ、汚いのは干し柿ではなく、今の父上ぞ。」

嫌がる吉法師を抱え込みながら、信秀の胸には痛快な確信が育っている。

この子は、武士の看板にも、中世の因習にも、何ひとつ縛られていない。沼に潜む蝮を恐れるどころか、それを干上がらせる「銭と合理」のからくりを、遊びのように見抜いている。

「よし、蝮の娘をお前の嫁に貰ってくれよう。」

「蝮の娘か。気味が悪いが、美濃の硬そうな山が手に入るなら貰ってやってもよい。」

「お前、道三が好きか?」

「もちろん好きだ。」

飄々と干柿をかじる十三歳の好奇心に、信秀は己の敗北の悔しさなど完全に忘れ去っていた。

斎藤道三という男の存在そのものが、この時代が孕む可能性の象徴であった。もとは山城国西岡の油売り、あるいは妙覚寺の僧侶とも伝わる出自から、権謀術数の限りを尽くして主家の美濃守護・土岐氏を追放し、ついには一国を呑み込んだ下剋上の権化という印象が強い。後世の我々は、武士といえば江戸の泰平の中で儒教によって美化された「忠義の徒」を思い浮かべがちである。だが、中世の武士にそのような小綺麗な道徳はない。彼らは本質的に武装した実践者であり、検証者であり、柔軟な修正者であった。土地という生存基盤を守るためなら主君を裏切ることも、親族を屠ることも一つの仕事であった。

道三が異形であったのは、中世武士が誰しも腹の底に抱え込んでいた「剥き出しの利害と暴力」のみではなく、教養による尊敬と、暴力による恐怖の二面を鮮やかに操縦したことにある。この教養面を引き継いだのは甥にあたる明智十兵衛光秀との見方は、その後の展開を知るものにとっては、劇的ではある。

この敗戦を機に、信秀の戦略は大きく舵を切ることになる。

翌天文十七年(1548年)、道三との和睦を結んで濃姫を吉法師の正室に迎え入れると同時に、信秀は三河の今川勢に対峙すべく、尾張東部のなだらかな丘陵に新たな防衛拠点を築いた。それが末盛城である。

(第2回・了)

第3回 正徳寺の規格  蝮と二人の天才