anone.one週刊連載小説 是非に及ばず—信長の宣戦布告(第3回) 水城丁房


ZEHINIOYOBAZU-NOBUNAGANOSENNSENNFUKOKU
MIZUKI TEIBO
第3回 正徳寺の規格 蝮と二人の天才
天文十八年(1549年)初春、美濃から一羽の「少女」が尾張へ輿入れしてきた。帰蝶。濃姫である。
この婚姻は、単なる手打ちの儀礼ではなかった。美濃の蝮・斎藤道三にとって、己の血を分けた娘を餌にして尾張の深奥に鉤針を打ち込み、織田弾正忠家の実情を見定めるための冷酷な計略であった。
だが、道三という怪物は、娘の報告だけで満足するような男ではない。自らの眼で直に好敵手、信秀の後継者である「尾張のうつけ」を解剖せねば気の済まない執念を抱えていた。
その機会は、輿入れからほどなくして訪れた。尾張と美濃の境、正徳寺における舅と聟の対面である。
街道沿いの粗末な民家の格子戸の隙間に、道三は身を潜めていた。供回りは厳選した手勢ばかり七百余名。その道三のすぐ背後に、影のように侍る若者がいた。
明智十兵衛光秀である。
二十二歳――吉法師よりちょうど六つ年長である。
清和源氏の血を受け継ぎ、多感な十代のすべてを費やして古典を読み漁り、連歌をたしなみ、城塞の構造や南蛮鉄砲の弾道理化学を「一つの学問・技術」として極め抜いてきた自負がある。自らの知性と教養、そして歳月をかけて積み上げた合理的な思考こそが、乱世の混沌を論理で秩序づけるための最も洗練された器であるという、若きエリートとしての静かなプライドが骨の髄まで浸み込んでいた。
それなのに、目の手の前の男はどうだ。まだ十六歳を過ぎたばかりの、自分より六つも若い若造にすぎない。
当時、美濃にあって十兵衛の評判は際立っていた。中世の教養たる和歌や連歌、古典の素養を完璧に身につけながら、兵法、築城、そして何より伝来間もない鉄砲の射撃と火薬調合において、家中の誰よりも鋭い数理的才能を発揮していた。道三はこの怜悧な青年を深く愛し、時に己の息子たち以上にその知性に信を置き、自らの思考の壁打ち相手として重用していた。
格子戸の隙間から、砂煙を上げて進む織田勢の行軍が見えた。
先頭を行く男の姿に、民家の奥に控える美濃の武士たちは思わず失笑を漏らした。吉法師である。髪を茶筅に巻き、湯帷子のような派手な小袖をはだけて太ももを剥き出しにし、腰には干柿や瓢箪、火打ち袋を所狭しとぶら下げている。
「噂に違わぬ大うつけよ」
美濃の重臣たちが嘲笑混じりに囁き合うなか、道三だけは微動だにしなかった。その双眸は獲物を狙う野獣のように細められ、吉法師の奇矯な風体ではなく、彼が引き連れる軍勢の「異様な規格」に釘付けになっていた。
率いる足軽たちの手にある長槍は、五百本すべてが三間半の長さに寸分狂わず揃えられている。さらに、その背後には黒光りする鉄砲が五百挺。当時、天下のどの戦国大名も成し得ていなかった、徹底した「規格化と斉射」を前提とした恐るべき軍団の編制であった。
道三は冷や汗が背筋を伝うのを覚えた。
(……見かけはうつけを装いながら、軍の骨組みをすべて新時代の数理で組み直しておる)
道三の背後で、十兵衛光秀もまた息を呑んでいた。十兵衛の怜悧な頭脳は、即座にその行軍の幾何学的な合理性を理解した。理解できたからこそ、十兵衛の胸の内に、これまで味わったことのない黒い疼き――まんじりと嫉妬が走った。
十兵衛は、鉄砲の弾道や火薬の調合を「一個の高度な技術・学問」として極めていた。だが、目の前の吉法師は違う。技術を愛でるのではない。尾張の圧倒的な銭の力でそれを何百、何千と買い叩き、個人の武勇など塵芥のように吹き飛ばす「匿名の巨大システム」として戦場へ投下しようとしている。
知性においても、教養においても、自分の方が遥かに洗練されているはずだ。十兵衛のプライドがそう告げていた。しかし、吉法師が放つその暴力的なまでのスケール感と破壊の意志は、十兵衛の緻密な知性を根底から嘲笑っているかのようであった。
やがて正徳寺の本堂へ場所を移した道三を、さらなる衝撃が襲った。
上座に現れた吉法師は、先ほどの異装を脱ぎ捨て、黒の羽織袴に身を包み、髪をきちりと結い上げていた。その威儀正しさと、切れ長の瞳から放たれる圧倒的な爽やかさに、百戦錬磨の道三すら気圧されて言葉を失った。舅と聟の儀礼的な挨拶が交わされる間、吉法師はただ静かに微笑み、道三の肚の底を逆に見透かすような眼差しを崩さなかった。
対面を終え、美濃への帰途についた道三の行列は、重苦しい沈黙に支配されていた。
夕闇が迫る尾張の街道で、道三は馬を止め、振り返った。側近の猪子兵助が「やはり噂通りの大うつけにございましたな」と媚びるように言った瞬間、道三の鞭がその頬を鋭く打った。
「黙れ、痴れ者が」
道三の声は低く、怒りというよりは底知れぬ怖れに震えていた。
「不幸なことになった・・・」
家臣たちが震撼し平伏する中、道三は傍らに寄せていた光秀に視線を向けた。
「十兵衛。お前には、あの男がどう見えた」
十兵衛は馬上で背筋を伸ばし、沈着な声を絞り出した。
「……恐るべき男にございます。されど主殿、あれは秩序を建て直す器ではございませぬ。あれが解き放つ力は、古来の礼節も、神仏の掟も、武家の誉れも、すべてを等しく灰燼に帰す業火。知性ではなく、剥き出しの破壊にすぎませぬ」
十兵衛の言葉には、類まれな慧眼と、己の美意識を否定された者の拒絶が滲んでいた。道三は十兵衛の顔をじっと見つめた。
「十兵衛よ。お前の才は、この乱世にあって誰よりも美しい」
道三はどこか哀しげに笑った。
「お前は吉法師より六つ年長だ。由緒ある血を受け継ぎ、古今東西の書を読み、天下の筋道を説き、鉄砲の理を解く。積み上げた学も、身につけた礼節も、あ奴より遥かに上だ。天下を治める行政の才、法を敷く知恵において、お前は間違いなく吉法師より優れておる。だがな、十兵衛。」
道三は首を振った。(・・・・覇気と才能において二人に差はなかろう。だが尾張のうつけは人に頭を下げる必要なく成長してしまっている。加速度が違う。)
「あ奴は、何かを立て直そうとしておるのではない。『土台』そのものを叩き壊そうとしておるのだ。中世という泥沼を、ことごとく干上がらせ更地にし、出てきた化け物をすべて駆除しようとするだろう。その途轍もない悪業と構想力だけは、お前の澄んだ知性と高貴な血では測り切れぬ。……そしてわしのような泥に棲む蝮すら、あの男の更地の上では息が吸えぬのだ」
道三の言葉は、二十二歳の十兵衛の胸を鋭利な刃物のように抉った。
自分の方が才がある。血統も、教養も、年齢に裏打ちされた成熟も、道三様すら認める実務の能力も、すべて自分の方が上なのだ。それなのに、なぜ道三様は、たかが十六歳の未来が見えるのか。
美濃へ帰る夜道、十兵衛の眼裏には、正徳寺の上座で涼やかに世界を見据えていた信長の横顔が、年下の分際でという侮りを超え、強烈なライバル心を灯しながら、消えない焼き印のように焼き付いていた。
新世界の規格化を目論む十六歳の信長と、中世の叡智と格式を一身に背負う二十二歳の光秀。二人の天才が交錯し、年齢差とプライドのねじれを孕んだまま、すでにこの美濃の山並みを望む夕暮れの中で、特殊な友情が動き始めた。
(第3回・了)
