anone.one週刊連載小説第1回 是非に及ばず—信長の宣戦布告 水城丁房

ZEHINIOYOBAZU –NOBUNAGANOSENSENFUKOKU
MIZUKI TEIBO
第1回(プロローグ) 覚王山と信長の父、弾正忠信秀
「是非に及ばず」――。
天正十年(1582年)六月二日未明、京都・本能寺の業火の中で織田信長が遺したとされるこの言葉は、後世、一般には「もはや詮無いこと」「運命を受け入れる諦念」といった無力感の響きをもって解釈されてきた。
だが、信長という男が生涯を賭して企図した世界の構造を丹念に解剖していくと、まったく異なる風景が立ち現れてくる。
中世という時代は、あらゆる局面において「是(正義)」と「非(悪)」の神学論争に縛られていた。家格の上下、主従の義理、神仏の不可侵、そして土地の境界。人々は古くさい因習の枠組みの中で「何が正しく、何が邪か」を不毛に議論し、その泥沼の中で血を流し合っていた。
かつて信長が叩き壊したのは、その古臭い倫理そのものであったのではなかろうか。
銭の巡り、鉄砲の弾道、道路の幅、火薬の調合比率、人の得意と不得意。そこにあるのは善でも悪でもない。ただ冷徹に機能するか否かという「数理と合理」だけである。
――是か非かなど、論じるに及ばぬ。
世界を動かすのは観念の正義などではなく、圧倒的な実利と構造(アーキテクチャ)の力であるという宣告。彼にとって「是非に及ばず」とは、終幕の諦めなどではなく、若き日に尾張の丘に立って以来、中世の旧秩序へ突きつけ続けた宣戦布告の設計思想そのものであった。
JR名古屋駅から東方へ市営地下鉄東山線に乗り15分。覚王山という駅がある。
改札を出て広小路通を離れ、住宅街の緩やかな傾斜を南東へ辿ると、鬱蒼とした木々に覆われた小高い丘が現れる。城山八幡宮である。鳥居をくぐり境内へ足を踏み入れると、名古屋市内とは思えぬほど切り立った深い空堀と土塁の起伏が、今もなお生々しく残っている。
末盛城。
天文十七年(1548年)、信長の父・弾正忠信秀が三河の今川勢に対峙する東の防衛拠点として築き、のちに弟・信勝(信行)が籠もって信長と骨肉の争いを演じた地である。信長が旧来の「血縁」という中世の古い縛りを断ち切るために、みずからの肉親を謀殺せざるを得なかった原点ともいえるが、信長がもっとも深く愛し、そして己が描く「新世界」のすべてを託そうとした嫡男、織田出羽介信忠(奇妙丸)の生まれた城ともされる。
この城の北麓、現在の覚王山日泰寺にほど近い住宅街の片隅に、桃巌寺という寺院がある。かつて末盛城の一郭に組み込まれ、信秀の菩提を弔うために開かれたとも伝わるこの静かな寺の佇まいを見つめるとき、戦国史の中で奇妙に過小評価されてきた一組の「父子」の姿が浮かび上がってくる。
世の通説では、奇抜な風体を好む信長を母の土田御前や家老の林秀貞が疎み、弟の信勝(信行)を溺愛したのに対し、父・信秀だけがその器量を密かに見抜いていた、という美談めいた構図で語られがちである。
だが、ふたりのあいだに流れていた交感は、そうした情緒的な「親子の情」をはるかに超えていた巌
信長の父、信秀は、単なる地方の荒武者ではない。津島や熱田という伊勢湾の水運・商業拠点をいち早く軍事的に掌握し、そこから生み出される莫大な流通資本を背景に台頭した、当時としては極めて特異な「経済型戦国大名」であった。朝廷へ巨額の献金を行い、伊勢神宮の式年遷宮を資金面で支えたのも、中世的な権威への盲従ではなく、権威を金で買い取って己の力に変えるリアリズムを持っていたからに他ならない。
信長は、その父の背中を、誰よりも鋭く見つめていた。
古い土地の領有(石高)のみに縛られる武士の限界をいち早く悟り、「銭の力」と「流通の掌握」によって世界を再構築しようとした信秀のプラグマティズム。それこそが、のちに信長が天下に展開する楽市楽座や兵農分離、そして安土城という巨大な構造の原初たる遺伝子であった。
信秀が晩年を過ごし、その息を引き取ったこの末盛の丘は、信長にとっては父から「新しい時代を拓くための資本と設計思想」を不可視の形で継承した、思想的な起点であったといえる。
筆者はこの覚王山駅を最寄りとして名古屋に暮らしている。元来九州の生まれである筆者にとって、この名古屋という異形の都会は、日本各地のどの都市とも一線を画した強烈な個性を持って映る。
世間では時に「大いなる田舎」と揶揄される。東京のような際限のない消費に背を向け、独自の生活防衛的な堅実さを保ち続けているからであろう。俗に「名古屋人はケチだ」などと言われることもある。しかし、この街に腰を据えて息遣いを感じていると、それがまったくの誤解であることに気づかされる。
彼らはケチなのではない。無駄な見栄や形骸化した権威に一文たりとも払わない代わりに、これと定めた実利や本質、そして「ここぞ」という大勝負の投資には、周囲が息を呑むほどの巨額の富を迷いなく注ぎ込む。
徹底したリアリズムと、圧倒的な資本の集中投下。この独特の経済合理性こそが、中世からこの濃尾平野の底流に脈々と受け継がれてきた精神の骨格ではないか。
現代の地勢を見渡しても、この尾張・名古屋という土地の特異性は際立っている。
この狭い平野から、信長、秀吉、家康という三人の「天下人」――ヨーロッパの史観でいえば実質的な三人の皇帝が立て続けに飛び出し、日本という国の骨格をすべて作り変えてしまった。にもかかわらず、その震源地である名古屋そのものは、歴史上、外敵による決定的な略奪や壊滅的な蹂躙を一度たりとも経験していない。
戦国の動乱期も、信長や家康の覇権確立によって尾張は常に「勝者の本拠」であり続けた。徳川の世にあっては御三家筆頭として不可侵の聖域となり、明治維新の戦乱すら巧みにやり過ごした。太平洋戦争の空襲という近代の悲劇を除けば、中世から積み上げられた富と血脈、そして地場産業の分厚い資本の地層は、他国に吸い上げられることなく、そのままこの濃尾平野の土中に沈殿し、現代の圧倒的なものづくり産業の富へと直結している。
外から奪われたことがない。だからこそ、権威に媚びる必要がない。ただひたすらに、目の前の「実」と「技術」を磨き、自前の富を溜め、ここぞという盤面にすべてを投じる。
この不気味なほどの自己完結性と強靭な実利思想は、すでに五百年前のこの丘の上で、完全に完成されていたのである。
そして、この「名古屋的合理主義」の原型を最初に規格化し、歴史の表舞台に叩きつけた男こそが、織田信長の父、弾正忠信秀であった。
(第1回・了)